プレゼンターの登壇順についてお知らせ
【執筆者:事務局・山本】

ニート・不登校・ひきこもり NEXT VISION FORUM コーディネーターの山本です。昨日、プレゼンターの登壇順を決定いたしましたので、その結果をご案内いたします!

先頭バッターは、『「ニート」って言うな!』(光文社)の後藤和智さん。後藤さんのお話を聞きたい方は非常に多いでしょうから、オーディエンスの遅刻防止も兼ねて、最初に登壇していただくことになりました。みなさん、時間に遅れないように♪

2番バッターは、ポジメディア代表のオキタリュウイチさん。後藤さんがメディアによって流されるネガティブな情報による弊害を語るとすれば、オキタさんには、メディアを用いて世の中をポジティブにしていく方法論を提示していただきます。

3番バッターは作家の雨宮処凛さん。ニートで不登校だった雨宮さんのキャリア形成を通じて、若者に対する支援のあり方を考えていきます。

4番バッターは常野雄次郎さん。「元登校拒否児の中でマトモな社会人になってる人が、いったいどれくらいいるっていうんだろう。」(『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』理論社、P137)の実情から、これからの不登校支援の可能性を考えていければと思っています。

5番バッターは「引きこもり村」のありまよしやさん。ありまさんにはネットを通じて見る不登校・ひきこもりの現状と、「ネットを通してのひきこもり支援の可能性と具体的方法」を中心にお話いただきます。

いったん休憩が入り、6番バッターは映画監督の巨椋修さん。巨椋さんには「不登校の真実」「大丈夫」という2本の映画をお撮りになった背景や、その映画の中で表現したかった内容を観客のみなさまにお伝えいただきたく予定です。

7番バッターは『不登校は終わらない――「選択」の物語から<当事者>の語りへ』(新曜社、2004)』の貴戸理恵さん。貴戸さんには大人になった不登校の現状(特に就業問題について)を研究者の立場から、そして今現在進行形で持っている問題意識や研究テーマについてお話いただく予定です。

8番バッターはNPO法人不登校情報センター代表理事の松田武巳さん。松田さんには不登校・ひきこもり支援の現場で困っていることを、時間の許す限りお話いただき、支援団体に対する支援の必要性・可能性について考えていきます。

ラストバッターは、NPO法人KOMPOSITION代表理事の寺井元一さん。寺井さんには、ニート・フリーターの若者の心象風景から、若者支援全体の話にまで議論を広げて、フォーラムを総括していただきます。

各プレゼンターの登壇時間は15〜25分+質疑応答5分。最後に少し事務局からお知らせのお時間をいただいて、18時まで交流会となります。

若者支援の未来が見える貴重な機会となるはずです。参加ご希望の方は是非お早めにお申し込みください!!!!(定員まで残り20名を切りました。)



 
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後藤和智さんからのダイジェスト
【執筆者:事務局・松浦】

プレゼンターの後藤和智さんから、フォーラムに向けたダイジェストをいただきました。後藤和智さんは、書籍『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006)の著書として有名な方です。

プレゼンター紹介ページに掲載しましたので、ぜひぜひご覧になってください!

後藤和智さんからのコラムはこちら



 
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雨宮処凛さん、ありまよしやさん、貴戸理恵さんからメッセージ
【執筆者:事務局・山本】

プレゼンターの雨宮処凛さん、ありまよしやさん、貴戸理恵さんから、フォーラムに向けたコラム・メッセージ・ダイジェストをいただきました。

各プレゼンター様の紹介ページに掲載しましたので、ぜひぜひご覧になってください!

雨宮処凛さんからのコラムはこちら
侑摩佳彌(ありまよしや)さんからのメッセージはこちら
貴戸理恵さんからのダイジェストはこちら



 
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『オヤジノセナカ東京 Vol.2』のお知らせ
【執筆者:事務局・山本】

昨日の本ブログへのアクセス数が583回。かなり注目を集めるフォーラムとなってきました。
(ブログの訪問数をカウント。ブログ内での移動はカウントしません。 )

さて、フォーラムプレゼンターのオキタリュウイチさんが代表を務める「ポジメディア」が27日(土)に人生を4倍自分らしく生ききるための最強イベント『オヤジノセナカ東京 Vol.2』を開催いたしますのでご案内します。



ーポジメディアプロデュースー
☆人生を4倍自分らしく生ききるための最強イベント☆
━━★★★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

       『 オヤジノセナカ東京 Vol.2 』

 〜いろんな種類の「粋な大人」集結。
       楽しんで生きている大人のセナカを体感し、
                自分の人生のデザインをしよう!!〜 

                         5月27日(土)13:00〜
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★★★━━━━


あなたは今、「早くオトナになりたい!」と思えますか??


昔は、「はやくこんなオトナになりたい!!」と思えるような、
面白くて、楽しく生きる、粋なオトナがたくさんいた。

そんな人たちと接することで、
「自分が、子供たちから憧れられるようなイケてる大人」になる
イメージができた。

でも、そんな大人が、最近減ってきました。

そこで、ポジメディアは
「まだまだ世の中には面白い大人がいるはず。
そんな大人たちを毎回集めて、生き様をサンプリングすれば…
みんな自分が大人になるイメージが楽しく変わるんじゃないの!?」
と考え、この「オヤジノセナカ東京」が生みだしました。


「プロとは何か?」
「自分らしく生きる秘訣とは何か?」
「楽しんで生きている理由とは?」


をセナカで教えてくれる、セナカマスターと向き合ってみませんか??

「楽しんで生きる」には理由がある。
その理由を知れば楽しくなる。
そして楽しい人生がデザインできる!!

来ないと、損するよ!!!


■ 開催概要
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□日時:5月27日(土)13:30〜17:00(13:00受付開始)
□会場:渋谷マリアクリニックビル
東京都渋谷区桜丘町24-5
(東京情報ビジネス専門学校隣)
□地図:http://www.tokyo-ibc.ac.jp/web/map.html
□参加費:1000円(資料代込み)
□定員:100名
□URL:http://www.posi-media.net/oyaji/

■ 当日プログラム
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【オヤジさん・プレゼンテーション】
各セナカ・マスターからの自己紹介と、何が起こるかまったく
予測のつかないプレゼンテーション。

【オヤジを囲んでグループトーク】
1人のセナカ・マスターを10人組み程度のグループで囲み、今までの
生きざま、
価値観、仕事に対して息のかかる距離で本音でぶつかり合います。

【セナカ・フィードバック】
セナカーマスターから、参加者と触れ合っての感想などを
もらいます。

※終了後、近くの居酒屋にてオヤジを囲んで懇親会も開催します。
 費用は、実費のみ。


■ 当日のオヤジ(セナカ・マスター)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

・古新 舜 氏
────────────────────────────────────
映像詩人。早稲田大学院初の映像制作研究室に所属し、
クリエイティブチーム「cosmobox」代表、駿台予備校非常勤講師など幅広い
活動を行う。ジャンルの枠に囚われず、「瞬感」を映像作品に込める

・石川 雅巳 氏
────────────────────────────────────
サチ・エンタープライズ株式会社 代表取締役。
大学卒業後、22歳でレンタルビデオショップを起業。その後、
学習塾を立ち上げ、現在は不動産業の経営者。小さいころから
ずっと、将来の夢は「社長」だったという。

・藤沢 烈 氏
────────────────────────────────────
株式会社RCF 代表取締役社長(5月設立)。一橋大学卒業。若者が集う
サロンを目指したレストランバー『狐の木』店長を経て、マッキンゼー社に
入社。その後独立し、株式会社カスケード社長を経て、2006年5月に
株式会社RCF設立。「若い世代から優れた経営者を生む」事を、現在の
ライフテーマとしている。

・青木 健太 氏
────────────────────────────────────
NPO法人かものはしプロジェクト 理事。勉強だけじゃなくビジネス/NPOに挑戦
しようと、東大在学中にNPO法人かものはしプロジェクトを創業。事業に集中する
ために2004年に東大中退。カンボジアの児童買春防止に奔走中。スタート当初は
まったく技術もビジネススキルもなかったが、html/perl/PHPからスタートし、
現在は中堅企業対象のITコンサルティングやECサイトを手がける。

・上田浩司氏
────────────────────────────────────
株式会社ガイアックス 執行役員。大学卒業後大手小売り業にて販売と仕入れ
に携わる。その後大阪にて家業の商売を継ぐ。その傍ら、友人数人と京都や大阪
でいくつかの起業にむけて実験を繰り返す。平成11年5月に実弟の現社長の祐司
氏と(株)ガイアックスを設立。大阪営業所を立ち上げ、関西にて営業活動をすす
める。現在、ガイアックスは昨夏株式公開し、ネットコミュニティ構築企業とし
て最大手に成長。


その他セナカマスターも参加調整中!!


■ 主催団体(株)ポジメディアとは?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「報道したことは「広告」となり、次に起こる現象として具現化していき
ます。それならポジティブな事実をあるクリエイティブ手法に基づいて
「報道」すれば、ポジな現象が社会に広がり、結果的にすべての人々式公開し、ネットコミュニティ構築企業とし
て最大手に成長。


その他セナカマスターも参加調整中!!


■ 主催団体(株)ポジメディアとは?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「報道したことは「広告」となり、次に起こる現象として具現化していき
ます。それならポジティブな事実をあるクリエイティブ手法に基づいて
「報道」すれば、ポジな現象が社会に広がり、結果的にすべての人々に
とって有益な社会モデルを具体的に提案出来るのではないか?という仮説
を、メディアを駆使して検証していくユニークなプロジェクトを行って
いる団体です。
http//:www.posi-media.net


■ 参加申し込み方法
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
◆下記フォーマットに必要事項をご記入の上、下記の条件で
お送りください。

  送付先: oyaji@posi-media.net
  件名 :【オヤジノセナカ東京:参加申込み】
  締切 : 5月25日(木) 23:59

※終了後、近くの居酒屋にてオヤジを囲んで懇親会も開催します。
 費用は、実費のみ。

----------------------ここから------------------------
・氏名:
・職業:学生・フリーター・ニート・その他(   )
・メールアドレス:(PC)
・携帯電話:
・参加動機:
・懇親会: 参加 ・ 不参加

----------------------ここまで------------------------
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■問合せ先:株式会社 ポジメディア
TEL:03‐3464‐4530 E-mail:oyaji@posi-media.net
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 
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当フォーラムプロデュース団体、J-WAVEにて紹介!
【執筆者:事務局・山本】

直前ですが、当フォーラムをプロデュースするNPOコトバノアトリエが、19日PM9:20頃、J-WAVEにて取り上げられることになりました。「JAM THE WORLD」という番組内の、ジャーナリスト・高瀬毅氏のコラムの中で、「若者自立塾」と「神保町小説アカデミー」が取り上げられるそうです。

ご興味のある方はぜひ番組をチェックしてみてくださいね! どうぞお楽しみに!

 
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映画監督の巨椋修(おぐらおさむ)さんに、ご出席いただけることになりました!
【執筆者:事務局・山本】

皆様に嬉しいお知らせがあります! フォーラムのプレゼンターとして、映画監督の巨椋修(おぐらおさむ)さんにご出席いただけることになりました!

巨椋様には、不登校をテーマにした二本の映画をお撮りになった背景や問題意識、その映画の中で表現したかった内容を、観客のみなさまにお伝えいただければと思っています。

フォーラムの参加者も続々とお申し込みが来ています。参加ご希望の方はぜひお早めにお申し込みくださいませ(_ _*)

巨椋さんの詳しいプロフィールはこちら。

フォーラム参加申込フォームはこちらからどうぞ。

 
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雨宮処凛のわくわくお楽しみ会 VOL.2 のお知らせ
【執筆者:事務局・山本】

ニート・不登校・ひきこもりNEXT VISION FORUM事務局の山本です。

フォーラムプレゼンターの雨宮処凛さんが5月31日(水)に新宿ロフトプラスワンで行うイベントをご案内します。

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雨宮処凛のわくわくお楽しみ会 VOL.2
「そうだ! 革命家に聞こう!一革命家があなたの人生相談に答えます一」

 悩みがあるなら革命家に聞こう! きっと想像もしない答えを革命家は示してくれるはず。年間自殺者三万人の時代、自殺する前にあなたの悩みを「格差社会」や「資本主義」なんかのせいにしてLet's革命! ちょいダメオヤジの愉快な革命家&若者の生きづらさをテーマにしてきた雨宮処凛があなたの悩みをブッた斬ります。相談したいことがある人は、悩みを400字ほどにまとめて受付に提出して下さい。

出演 雨宮処凛(作家・革命家)、塩見孝也(元赤軍派議長・革命家)、鈴木邦男(新右翼一水会顧問)、木村三浩(一水会代表・革命プロモーター)、平野悠(ロフト席亭)、土屋豊(映画監督)悩みを400字ほどにまとめて受付に提出して下さい。

出演 雨宮処凛(作家・革命家)、塩見孝也(元赤軍派議長・革命家)、鈴木邦男(新右翼一水会顧問)、木村三浩(一水会代表・革命プロモーター)、平野悠(ロフト席亭)、土屋豊(映画監督)

5月31日(水)
新宿ロフトプラスワン 新宿区歌舞伎町1-14-7 林ビルB2 03-3205-6864
OPEN 18:30 START 19:30
1500円(飲食別)
※人生相談持参の方は300円引き!
入場時に相談を書いた紙を受付にお渡し下さい(ペンネーム可)




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……革命家による人生相談、楽しそうですね!

フォーラムでの雨宮さんの時間は約30分ですので、より雨宮さんを堪能したいという方は是非新宿ロフトワンへ!!


・雨宮処凛公式ホームページ
http://www3.tokai.or.jp/amamiya/

・すごい生き方 ブログ
http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/

 
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アンケートへのご協力ありがとうございました!
【執筆者:事務局・山本】

こんにちは。ニート・不登校・ひきこもりNEXT VISION FORUM事務局の山本です。

5月1日より首都圏のニート・不登校・ひきこもり支援約400団体様にご依頼しておりました調査アンケートの回答を、5月10日をもって締め切りとさせて頂きました。みなさまのご協力により予想をはるかに上回る回答を頂くことができましたこと、心より御礼申し上げます!

また、今回の調査アンケートの結果は、2006年6月4日開催の「ニート・不登校・ひきこもり NEXT VISION FORUM」にて、貴重なデータとして活用させていただきますので、お時間のある方は是非当日会場までお越しください。

それでは今後とも当フォーラムをよろしくお願いいたします。

ニート・不登校・ひきこもりNEXT VISION FORUM事務局

 
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06年度フォーラムプレゼンター関連リンク集
侑摩佳彌:ひきこもり村
侑摩佳彌:ひきこもりずむ
雨宮処凛:雨宮処凛公式ホームページ
雨宮処凛:すごい生き方ブログ
オキタリュウイチ:ポジメディア
オキタリュウイチ:オキタリュウイチ事務所
巨椋修:不登校・ひきこもり・ニートを考えるブログ
巨椋修:映画『不登校の真実』制作委員会
貴戸理恵:論点ひきこもり - 貴戸理恵さんインタビュー
後藤和智:新・後藤和智事務所
常野雄次郎:(元)登校拒否系
寺井元一:KOMPOSITION
寺井元一:KOMPOSITION代表・テライマンblog
松田武巳:不登校情報センター
山本繁:コトバノアトリエ

 
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プレゼンター(一覧)
◆プレゼンター
※2006年5月8日現在、確定済みの方のみ。

雨宮 処凛 氏
作家、著書に『自殺のコスト』(太田出版)など

ありまよしや 氏
「ひきこもり村」管理運営者

オキタリュウイチ 氏
ポジメディア代表

巨椋 修 氏
作家・漫画家・映画監督。映画作品としては、映画『不登校の真実』、著作としては、『お父さん、お母さん、肩の力を抜きませんか?』他多数。

貴戸 理恵 氏
東京大学大学院博士後期課程在学中、著書に『不登校は終わらない−「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』(新曜社)など

後藤 和智 氏
東北大学工学部建築学科在学中、著書に『「ニート」って言うな!』(光文社)

常野 雄次郎 氏
フリーター、著書に『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社)

寺井 元一 氏
NPO法人KOMPOSION代表理事

松田 武巳 氏
NPO法人不登校情報センター代表理事


◆コーディネーター

山本 繁 氏
NPOコトバノアトリエ代表理事

 
後藤和智氏プロフィール
◆後藤和智

1984年岩手県生まれ。東北大学工学部建築学科在学中。平成17、18年仙台市成人式実行委員。2004年11月より、ブログ上で青少年言説の検証に取り組んでいる。著書に、『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006)

・新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/


●後藤和智さんより

 皆様こんにちは、このたびは「ニート・ひきこもり・不登校 NEXT VISION FORUM」で、プレゼンターの一人としてご招待いただいた後藤和智と申す者です。

 ところで皆様は、「ニート」という言葉を聴いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。おそらく皆様の抱かれるイメージは人それぞれだと思いますが、多くの人が接するマスメディア上において、「ニート」という存在がどのように描かれているか、というのが、私の基本的な関心領域です。

 とはいえ、私が関心を持っているのは「ニート」だけではなく、例えば「ひきこもり」「不登校」「フリーター」、あるいは「オタク」、または「戦後民主主義教育」、さらには「少年犯罪」など、現代の青少年に特有の病理、とされている――勝手に決め付けられている、と言い換えてもいいですが――ものに対するマスメディアの「語り口」、およびそれが社会にもたらす影響――多くの場合が悪影響ですが――です。

 さて、フジテレビのバラエティ番組に、「はねるのトびら」というものがあります。私は水曜日はアルバイトで家庭教師をやっているので見られないのですが、今年5月10日、バイトが休みだったときに、たまたまそれを見ていました。そこで、「HOME PRO WESTLING」と題するコントで「ニートvs母親」なるシチュエーションが描かれていました。まあバラエティだしこういうのが出るのも仕方ないかな、と思っていたのですが、そこにおける解説者役の人の「ニート」に関する解説が余りにもでたらめで、食事中にもかかわらず怒髪天を衝いてしまいました。

 たかがコントでそんな過剰反応するなよ、とお思いになるかもしれません。確かにこれはコントですからまあ仕方ないな、とも思えます。しかしマスメディアには、このコントとほぼ同水準の「ニート」に対する、あるいは「ひきこもり」「不登校」「フリーター」「オタク」に対する解説があふれているのです。しかも、大きな――しかし根拠のない――憎悪でもって。

 論より証拠です、納得いかない方のために、例を挙げてみましょう。

 まず「ニート」。

―――――

 日本が裕福になり、親が養ってくれるからだろう。恵まれた時代に育ち、自立するという自覚が若者にはないからだ。日本の今後を考えると極めて不安だ。子供に良い目を見させると、ろくなことはない。(弘兼憲史/平成17年7月28日付読売新聞)

 「親思う心にまさる親心」とは、よく言ったもの。子どもの行く末を案じる親の庇護の下に、いまやニート、フリーター300万人。働かない若者についてはこれまで、年金財政や経済への悪影響ばかりが論じられもっぱら子どのも就職支援のあり方に関心が向けられてきた。だが、そうした自立しない子どもを持った家庭がどれほど過酷かは、あまり知られていない。憂慮すべきは、共倒れの危機にさらされる親たちなのだ。(奥田祥子、高畑基宏/「読売ウィークリー」平成17年8月14日号)

 それに何じゃあ、フリーターどころか、ニートまで救済するやと?税金も払わん上に、三十路になっても親がせっせと部屋にエサを運びつづけ、パソコンに向かってしか他人と会話できん奴のことをニートと呼ぶそうやないか。そんな穀潰しが何十万も生きておるんは世界広しといえども我が国だけや。(宮嶋茂樹/「週刊文春」平成18年1月19日号)

―――――

 続いて「ひきこもり」「不登校」。

―――――

 日中の活動が低下して深い睡眠がとれず、セロトニンが減ってドーパミンが変に活発になることは、まず他動になるということだが、それだけではなかった。小学校時代には無気力になって依頼心が強くなり、中学三年ぐらいの年代で甘えの反面の粗暴行為が出てくるようになる。また、セロトニンの減少は対人関係に問題を起こしがちで、環境への順応を難しくするということなのである。(小林道雄/「世界」平成13年2月号)

 「よろしいなあ、実家ではくつろげて…」(荷宮和子/「新現実」第2号(平成15年3月発行)


 私は検眼の実務家ですから、推測でしかありませんが、活字離れ、ひきこもり、友だちとのつきあい方がわからない――こうした子どもが多くなっているのも、目の働きから見れば、以上のように説明できるのではないでしょうか。(田村知則/「新潮45」平成14年10月号)

―――――

 あと「オタク」。

―――――

 児童ポルノ禁止法や、少女売春を禁じる法律はそういう時代性の中で出てきたのだが、まだそのことの恐ろしさにあまり気づいていない人が多いような気がする。今、小中学生の女児というのは、かなり弱い世の中に生きているのだ。子供にしか手を出せない変な大人の、性の餌食にされるかもしれない危険性の中に生きているのだから。(清水義範/「現代」平成13年11月号)

 なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ。自分の意に沿わない答えや、気に入らない少女の心の動きは完全に拒否する。(大谷昭宏/「日刊スポーツ」大阪版平成16年11月18日号)

 恐ろしい。誰とも話さない(話せない)20〜40代のオタクが、あの「手鏡の大学教授」と同じように「犯す行為」を夢想する。(牧太郎/「サンデー毎日」平成16年12月8日号)

 では、どうすればいいのか。いつものようにアダルトゲーム規制の話も出ているが、ネットや携帯電話がこれほど普及し、誰もが“なりすまし”で見知らぬ相手とコミュニケーションすることが可能になった今、ゲームやコミックの一部を規制してみても問題は解決しないだろう。「インタラクティブ性の高いシミュレーションゲームはすべて禁止」「チャットはすべて実名で」くらいの徹底的な措置をとれば、もしかしたら少しは効果があるかもしれないが、小学生新聞にもあるように「萌え」はいまや巨大市場となっていること、「稼ぐが勝ち」という市場原理主義がここまで浸透していることを考えると、そんな思い切った措置を提案できる人がいるとはとても思えない。(香山リカ/「創」平成17年7月号)

―――――

 そして現代の子供たち、若い人たちは、下のようなバッシングを連日の如く浴びているのです。

―――――

 「モンゴロイド流幼少期環境」とは相反するこうした「単純で甘い社会関係」の中で育ったらどうなるか、答えははっきりしている。長じてもPQは未熟のままで、夢も希望もなく、その日暮らしで、努力知らず、恥知らずな若者ができあがる。(澤口俊之/「新潮45」平成13年1月号)

 これは全てに置き換えることができる。生まれてこの方、公的空間において国歌も国旗も実感する機会が全く無かった子供たちは、「自分が日本人である」という意識を持ち合わせていないのだ。……それでいて、しっかりと国民としての権利は受け取っているのでなんともいえない。今の子供は自分が病気になった時に国民健康保険で補助をしてくれるのは日本国だという事を知らない。自分の持つ生命や人権を保障してくれているのは、酷いのになると「子供の権利条約」だと勘違いし、国民の生命財産を守ってくれている日本国を「当たり前」とまで錯覚している。(遠藤維大/「正論」平成13年9月号)

 当時(筆者注:1970年代後半)すでに「警告」という番組タイトルをつけなければならないほど子どもたちの発達の遅れや歪みは深刻だったが、その子どもたちは、生まれたときに既に茶の間にテレビがあった「テレビ第一世代」である。電子映像、テレビ画面にほとんど抵抗感がなく、テレビ画面は環境そのものである。(清川輝基/「世界」平成14年7月号)

 乳幼児に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動 ――キレる、いじめ、ひきこもりなどといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。(瀧井宏臣/「世界」平成15年11月号)

 最近の青少年の反抗にはテレビゲーム世代の特性がみられる。バーチャル(仮想)な空間では殺人がゲーム感覚で行なわれて、それに没頭するあまりに現実の生活感覚と区別がつかなくなっているのではないか、とゲーム文化を憂慮する声が広がっている。(平成17年2月17日付毎日新聞社説)

 この国の子どもたちは、生きもの(動物)としての人間が経験する実感から極力切り離される環境で育てられている。寒い、暑い、ひもじい、そして痛いという感覚から遠ざかるように日常が組み立てられている。何度も言うことだが、この国ほど、野に山に川にまちに子どもが遊んでいない国は世界中どこにもない。(筑紫哲也/「週刊金曜日」平成17年11月18日号)

 今の子たちって、逆ギレで刺すじゃないですか。(勝股州和/平成18年2月15日TBS系列「緊急大激論SP2006!」)

―――――

 実際には、少年による凶悪犯罪は昭和35年ごろをピークに減少傾向にありますし、幼女を狙った凶悪事件も、増加しているわけではありません。「ニート」や「ひきこもり」などに対する世間の認識――というよりはマスコミ報道――もほとんどが誤りです。にもかかわらず、なぜこのような言論がはびこるのでしょうか。

 そして、このような状況を、なんとも思わないのでしょうか。

 マスコミにおいては、「堕落する青少年」「凶悪化する少年犯罪」などというイメージが次々とたたき売りされ、出版界では青少年を根拠の乏しい俗論、あるいは自らの思い込みだけでバッシングした本が定期的に飛ぶように売れ、時として20万部以上の売り上げを記録します。

 そして、ただ働いていない、学校に行っていない、などの理由だけで、さも犯罪者予備軍として扱われる若い人たちが多くいるのに対し、「体罰」と称して4人の若い人の命を奪ったにもかかわらず、たった6年で娑婆に出てきては、何事もなかったかのように教育論を展開する男もいます。この男は監禁致死罪で懲役刑を受けていたはずですが、出所するや、この男が犯罪者であった、ということ、あるいは遺族の悲しみも忘れて「体罰は是か非か」なる論争をメディアが行っているという情景には、正直言ってあきれてしまいます。

 この男が出獄してくるのと偶然にも時を同じくして、とある「ひきこもり」に対する「治療」を行っているという施設から死者が発見されました。そしてこの施設の代表者は、とあるテレビ番組において「本気の大人」として紹介されていました。さらに、この人の姉も、暴力的な「ひきこもり」に対する「治療」を行っているとして問題にされているにもかかわらず、さまざまなメディアに好意的な紹介をされています。

 にもかかわらず、これらの事件は、「ひきこもり」というものに興味のある人を除いては、あまり関心を集められていません。

 我が国において、青少年問題をめぐる言説が本当に正しいのか、ということは、一部のネットや論壇の狭い世界を除いては、あまり問題視されません。むしろ、多くの人――マスコミもネットも含めて――が、通俗化された青少年イメージを受け入れ、それをベースに青少年を、さらには現代社会を語っているような気がします。

 現在、青少年の自由を奪うような条例や法案が次々と可決される、あるいは可決されようとしています。例えば、大阪府においては、平成17年の青少年健全育成条例改正において、18歳未満の少年少女に対して外出規制が敷かれました。国民に対して法規によって行動が規制されるのは、普通は戒厳令が出ているときか、その国が独裁国家であるかのどちらかでしょう。戒厳令も出ておらず、独裁国家でもない我が国において、なぜこのような条例が可決されるのでしょうか。

 さらに神奈川県においては、暴力シーンを含むあるテレビゲームソフトが、その基準もあいまいなまま、「有害図書」として規制されるという事態が起こりました。明確な基準がないわけですから、これが濫用されれば表現規制につながる恐れも十分にあります。

 このような事態に対して、これは青少年だけの問題だからいいんだ、むしろ青少年に対しては行政も厳しくあたったほうがいいんだ、と考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、ひとたびある部分における規制・統制が許されると、それはなし崩し的に社会全体に広まります。かつての第2次世界大戦中のナチス・ドイツにおいて、まず共産主義者、続いて労働組合員や社会主義者、さらにユダヤ人、そしてナチスの意向に反対する人たちを弾圧しました。

 現代は、青少年問題を皮切りに、国家が「正しい青少年」を、さらには「正しい大人」を規定する方向に向かいつつあります。立憲主義という理念を無視して、憲法に義務条項を盛り込め、とか、あるいは、教育基本法に「愛国心」を盛り込め、という挙動は、まさにそれを象徴しているといえるでしょう。

 注意すべきなのは国家や政府・与党ばかりではありません。例えば、増加するとされている――実際には増加していない――凶悪犯罪を受けて、巷では「地域コミュニティーの再建」「地域ぐるみで子供を守れ」なるスローガンが飛び交っています。しかし、そのようなスローガンの発信者、及び受け手は、果たしてそのような「コミュニティー再建」なるものによって排除される人たちについて想像力が及んでいるのでしょうか。また、例えば、青少年の「健全育成」なるもののために大人――特に団塊の世代――が介入すべきだ、という言説もあり、現にそのようなグループが好意的に紹介されている報道や論説も多く目にしたことがあります。しかし、このような傾向もまた、どうも私には青少年に対する囲い込みにしか見えない気がします。

 さらに言いますと、これらの青少年に対する「囲い込み」の一つの翼を担ってきたのが、ここ数年で自己啓発や超科学・ユダヤ陰謀論系の疑似科学を蹴落として急成長した、若者論系の疑似科学です。現代の若年層は、例えば多い兄弟の中で育ってこなかったから脳が発達しないのだ、とか、テレビゲームばかりやってきたから脳がおかしくなったのだ、とか、戦後の食生活によりあごの力が退化し、骨格が歪み、精神が歪んだのだ、などという論説が立て続けに発表され、多くの支持を得ています。これらの疑似科学は、現代の若年層の生活環境がいかに「異常」であるかを示し、そして一昔前の――つまり、現代の大人たちが少年だったころの――生活環境がいかに「正常」であったか、ということを「科学的」説明でもって主張します。しかし、そのような言説においても、根源、すなわち青少年問題に対する認識の層において間違いばかりですし、またそれらの中には青少年に対する「暴力」、あるいは、青少年への法的な規制の「根拠」となったものが存在することを忘れてはなりません。

 フォーラムにおいて、私は、現代の青少年言説の問題点を、特に青少年に対する「暴力」という視点、そして現代における疑似科学の動向という視点で発表したいと思います。青少年問題に関して私はまったくの専門外ですが(本業は建築学を学んでいる大学生です)、少なくとも巷の通俗的な青少年言説を受け入れているような人たちとはまた別の視点で発表できます。このフォーラムが、私にとって、そして青少年問題に関心のあるすべての人たちにとって、実りのあるものであることを願います。

 
貴戸理恵氏プロフィール
◆貴戸理恵

1978年福岡県生まれ。小学校時代はほとんど学校に行かずに家で過ごすが、中学から学校に行くようになり、現在は東京大学大学院の博士課程に在学中。大学時代に出会った研究者、小熊英二さんと上野千鶴子さんの影響で社会学に興味を持つ。子ども・若者と学校の問題について考えている。著書に、『不登校は終わらない――「選択」の物語から<当事者>の語りへ』(新曜社、2004)


●貴戸理恵さんより

「当事者の語り」再考

貴戸理恵

1.
 私は、1985年から1990年にかけての小学校時代をほとんど学校に行かずに家で過ごしている。学校に行かなかったことで、あるものを得、あるものを失った。それだけの話だ、と言ってしまってかまわない。ただ、みなが行くべき学校にひとり行かないという経験は、私に人と人、人と社会とのつながりについて考える契機を与え、その後の私を不登校という研究テーマにいざなった。

 1980年代後半とは、ちょうど日本における不登校運動が本格的に動き始めた時期である。当時、不登校は病理・逸脱であるとされ、対応は登校強制が主流であり、矯正施設への入所や精神科への強制入院までが、「ほんらい行くべき学校に行かない」というだけで、子どもの身に降りかかっていた。そうしたなか、不登校の子を持つ親や彼ら・彼女らをサポートする専門家たちによって、「不登校は病気ではない」「不登校でも問題なく「社会」に出てゆける」とする語りが生み出されていった。このような語りは、それまで否定的な価値のみを与えられてきた不登校という現象に肯定的な意味を見出すことで、不登校をめぐる子どもや親の苦しみに寄り添った。不登校の子どもを持つ親の会やフリースクール・フリースペースといった学校の外の子どもの「居場所」が創りだされ、全国に広まっていった。

 私自身もまた、こうした流れのなかにあった。「居場所」などに属したことがないため間接的にではあるが、「不登校は病気ではない」「不登校でも問題なく「社会」に出てゆける」とする語りは、不登校という事態によってともすれば全存在を否定されてしまいかねない私に、自己を肯定的に表現する言葉を与えた。それは私にとって、不登校に否定的な外部から身を守るための、いわばシェルターの役割を果たしていった。

 だから、その後大学に入学し、運動的な文脈を持たない専門家による不登校論に触れたときは衝撃だった。そこには、不登校の子どもの「生きづらさ」について論じる視覚はほとんど存在しなかった。不登校を生きる人びとの悩みや苦しみ、そのなかから不登校の意味を読み替え新たな自己を獲得していくいとなみは、「客観的な視点」から描かれる不登校の「全体像」や、その「原因、治療法、対処法」を探求する専門家の作業の中では、偏向した一部の実践であるに過ぎなかった。不登校を生きる子どもや親が、専門性という武器を持たないまま、ただ自分の経験から「不登校はそのようなものではないと思う」とかろうじて言葉にしてきたのとは異なり、彼らは学問の「客観性」「科学性」のもとにいともやすやすと不登校を定義した。そのようにしてつむがれる「不登校」の語が自分を覆いかぶさってくるように感じながら、私は「誰のことを書いているのか? あなたが何を知ってるのか?」という憤りを覚えた。

 そんなとき、「当事者」論という視点に出会った。「当事者である自己」を重視し、「わたしのことはわたしが一番よく知っている」と専門家の権威を相対化してみせるこの視角から、私は「自分の問題を自分で研究してよいのだ」ということを教わった。既存の不登校論に不全感を覚えていた私は、不登校をめぐる「当事者の語り」を収集し、それを経験した本人の視点から不登校を研究してみたいと思った(貴戸理恵2004『不登校は終わらない』)。

 けれども、いま、私は専門家の文章に「うまく憤る」ことができない。大学院に籍を置いて久しい私は、アカデミックサークルの雰囲気をつかみ、かつて私が怒りを向けた文章が、悪意や嫌悪などではなく、単に知的欲求と学問的誠実さから生まれたものだということを知っている。私自身がその一員となり、自分の知的欲求に応じて文章を書くとき、ちょうどかつての私のように、傷つく人びとがいる可能性についても、考えざるを得なくなった。
「当事者」の輪郭はぼやけ、いま私はこの言葉に注目する意味を改めて問い直す必要を感じている。「当事者」とはいったい誰であり、「当事者」が語ることにはどのような意義があるのか。


2.
 思えば「当事者の語り」とは、ある種のあやうさと隣り合わせの設定である。

 「当事者」という視点を重視する立場は、「問題に取り組む私」から出発しようとする。中西正司と上野千鶴子は「当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家族も、専門かも――私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許されない、という立場の表明である」と述べ、「当事者」の主体性や権利を重視し、「当事者」の視点から問題を語りなおすいとなみに注目する(中西正司・上野千鶴子2003『当事者主権』)。そこでは、初めに「ニーズを持つ主体」(=「当事者」)としての自己があり、その自己がさまざまな主張を行っていくとされる。

 一方で「語り」の作用に着目する物語論では、「まず『私』がいて、ついでそれについて私が語る」のではなく、「自分自身について語るという営みを通してはじめて『私』が生み出されてくる」とされる(浅野智彦2001『自己への物語論的接近』)。たとえば、「私は学校に行きたかったが行くことができなかった」と語るなら、自己はそのような現実を生きる存在として形作られるだろうし、「そうではなく、私は学校に行かない人生を選び取ったのだ」と語るときには、また別の自己が立ち現れるだろう。そこにおいて自己とは、語ることによって事後的に構成される流動的なものとなる。「語り」から出発する試みは、「当事者」論が依拠する「私」という主体の揺るぎなさを、逆に掘り崩す方向性を持つ。

 「自己が先か、語りが先か」という「当事者」論と物語論の出発点の違いは、「ひりひりするまでにどうしようもなく存在してしまっているこの私」か、「変化にひらかれたとらえどころのない私」か、という想定する主体の違いに関わってくる。この相反する2方向をともに含みこむなかで、「当事者の語り」はさまざまな困難に出会う。それは、「当事者」という概念そのものの抱える困難にも重なってくる。

 たとえば、「当事者」から出発する立場の本来の主張であった「私のことは私が語る」とする代理表象の不可能性は、ともすれば、「当事者」を特権的な語る主体として固定化させ、「本人が言うのだから間違いない」というように異論を差し挟みがたい別種の権威として出現させてしまうことと隣り合わせである。また、既存の支配的な価値への対抗に向けて生み出される「当事者の語り」が、人びとの「理解」を引きつける対象としての運動的な権利主張の物語へと水路付けられてゆくなかで、その状態を生き続けるひとりひとりの矛盾やずれを含む結末を欠いた多様な語りは、脇へと寄せられていく。さらに、「そもそも当事者とは誰か」という素朴な水準で見ても、「ニーズを持つ主体」としての自己の延長にある種の共通性を持つ集団が意識されたとき、「当事者」の外延を特定しようとする態度は、しばしば「真正な当事者」を設定しそこから零れ落ちるものを周辺化する「モデル被害者」(上野千鶴子)の構築と同様の危険を抱えてしまう。

 「当事者」という言葉は、その立場を引き受ける人びとの範囲を確定しようとする。けれども上に見たように、単に「専門家よ、当事者に学べ」「本人の立場に立って考えよう」とすることだけでは、「当事者の語り」は限定された可能性しか持ち得なくなるだろう。そのもう一歩先へ踏み込むことで、「当事者」という概念をより有効に使ってゆく必要がある。

 この点に関して、近年「当事者について語る」という「メタ当事者論」ともいうべき動きが、「当事者として語る」ことを経た人びとのなかから現れはじめている。「当事者」にこだわりながらも、そのなかに在る危うさを指摘するこの動きは、「当事者」概念に対する「ゆり戻し」ではなく、その救済を意図している(上山和樹2005「≪当事者の語り≫をめぐって」『こころの科学』123号、野崎泰信2004「当事者の再検討」『人間文化学研究』14号)。

 「当事者」を自己言及的に批判検討したうえでその意義と課題を明らかにしようとする点で、本稿はこうした「メタ当事者論」と関心を共有している。私もまた、上に示したような困難を認識したうえでなお「当事者」概念に意味を見出したいと考えている。「生きづらさを当事者が言葉にする」という「ニーズを持つ私」から出発する当事者論の初発の動機が、意義を持ち続けている文脈が、多く存在すると思うからだ。それは、当該の「社会問題」とされるものが、「当事者」以外の人びとによってもっぱら語られてきたような場合である。

 不登校は、そうしたケースのひとつであった。それは「学校と子どもとのつながり」、ひいては「社会と人とのつながり」を根底から問う。それゆえ不登校は「若者が社会に出て行く」うえでの失調とも密接に関わってくる。事実、若者と就学・就職をはじめとする「社会」とのつながりの問題は、いま最も注目される主題のひとつでありながら、「当事者」以外の人びとによって論じられることが多い。そこでは不登校の場合と同様、「当事者の語り」に着目する重要な意義があるように思える。


3.
 若者が「社会」に出て行くプロセスがうまくいかなくなった、という認識が広がっている。就労に対する希望や意欲を持てないでいるいわゆる「ニート」と呼ばれる若者をめぐっては、本人の「自己責任」であると見なしその薄弱さや怠惰さを嘆く「若者バッシング」がなされる一方で、労働経済学や教育社会学などの研究成果は、労働市場の問題や階層問題を指摘しながら、若者は社会的排除を被っている存在であり、問われるべきは個人ではなく社会構造であると強調してきた。

 労働市場に正規に参入していない若者に対して「職がないのは自己責任だ」と断じる態度が不当であることは、後者の議論から明らかであり、強調してしすぎることはないだろう。そのうえで、ひとりひとりの若者の「主体性」については、どう捉えればいいのだろうか。

 「ニート」という言葉の普及にもっとも貢献したひとりとして挙げられる玄田有史は、中・高年が実質的に若者の雇用を奪っている「置換効果」など構造の問題を強調したうえで、若者の「曖昧な不安」や「働く意欲」といった意識的な側面にも注目している。「不況や学校、職場、家庭のせいだと解説してみたところで、一人ひとりにはどうしようもないのだ。実際に当事者として働けない問題を抱えている人にとっては大切なのは、まず目の前にある状況をどうするかなのだ」とする玄田は、若者が共同生活を通して生活改善し就労に備えるようサポートする「若者自立塾支援事業」や、十代における仕事体験の教育システムへの組み入れといった政策を支持する(玄田有史2005『働く過剰』NTT出版)。

 一方で、本田由紀や内藤朝雄は、若者の意識や意欲といった個別的側面を問題化する態度をしりぞけ、「若者個人ではなく社会環境の整備に焦点を当てべき」とあくまでも構造的側面からの対策を探る。そこでは、他者の内面を代理表象しそれに手を加えようとする態度の暴力性や、若者の意識や意欲を問題化することで若年雇用問題が労働需要側ではなく労働供給側である若者の「自己責任」の問題とされてしまう危険性が指摘され、職業的意義の高い学校教育や、生き方の多様性を認める「自由な社会」といった新たな社会制度が展望される(本田由紀・内藤朝雄・後藤和智2006『ニートって言うな!』光文社新書)。

 これらの議論では、個々の若者の「生きづらさ」には真っ向から焦点が当てられることはない。制度論として「個々の内面を問わない」という姿勢は重要だが、そのことと「個々の「生きづらさ」を語る」こととは区別して論じられるべきだろう。この区別がなされないと、構造的な不平等を問題化する営みのなかでは、個々の「生きづらさ」や「主体性」は、その問題含みの既存の社会にいかに参入するかという個々人の生存戦略のなかに辛うじて見出されるか、さもなければ、「新たな社会」という全体像の提示のもとに、問うことそのものを丁重に禁欲されるかのどちらかになってしまう。そうではなく、若者が社会的排除を被っている存在であるならば、社会全体の制度改革と同時に、「制度論として個々の内面を問わない」ことに平行して、「当事者」の側からのムーヴメントが、もうひとつの方向としてありうるのではないか。一人ひとりが抱える「生きづらさ」を「他者の内面を云々する」以外の仕方で問いうるとすれば、やはり――語る特権や義務を「当事者」にのみ与えることとはまた別のこととして――「当事者」本人の手によってでしかないだろうと私は思う。フリーター「当事者」の書き手である杉田俊介が言うように、「ぼくらは、もっと怒っていい」のである。

 とはいえ、これはなかなか容易なことではない。「生きづらさ」や「主体性」への着目は、制度が内部を侵食する可能性とは異なる次元でも、困難を抱えている。佐藤俊樹は「不平等を被っている若者が、社会に向けて被害を告発せずに、運だと考えて納得してしまうのはなぜか」という問いに対し、 屬覆室分が今社会からはじき出されているのかを、そもそも見たくない」、⊆分が不当に恵まれなかったと感じると対人コミュニケーション能力が損なわれやすく「「イタい人」として嫌がられ、人格的に評価されなくなる」などの点から説明する(橘木俊昭編2004『封印される不平等』東洋経済新聞社)。「対人コミュニケーション能力」という言葉が妥当かどうかは検討が必要だろうが、重要なのは、不平等を認識し、告発することが、しばしば本人の孤独感や孤立をいっそう深め、人や社会とつながる手立ての獲得を困難にしてしまうということだ。
 
 では、そのような状況でどうすればよいのか。答えはまだなく、手探りである。ただ、私はそうした人や社会とつながる手立てのひとつに、新たなムーヴメントのきっかけとしての「当事者の語り」を提案したいと思うのだ。

4.
 もちろん権利主張という意味でならば、これまでにもさまざまな運動の現場で「当事者の語り」は注目されてきた。それは、ある状況を共有する人びとのニーズの表明という「結末」に向けてまとめ上げられた、一人称複数の「私たちの語り」であったといえる。そうした語りは、ゲイのカミングアウトの物語や「就学・就職に成功した元不登校者」の物語のように、社会変革の手立てとして大きな効果を持ちうる。

 けれども、ここで私が言いたいのはそうした語りのことではない。注目しているのは、事態が「克服」という「結末」を持たず、起承転結の見えないまま、ひとりひとりの現状にもとづいて「終わりのない語り」を語るという、いわば一人称単数の「私の語り」の集積でしかありえないような何かである。

 たとえば、ある「元ひきこもり」の青年は次のように語る。 

 「「ひきこもり」をしてきた人間は、<その後>が問題だ。外に出られるようになってからの方が、もっと辛い現実があるんだ」(小林博和2002『home』パンフレット)。この語りは、「結末」と見えるものが実は「結末」などではなく、「その後」へと続く途上にすぎないことを示している。不登校もまた、「学校に行けるようになった」ことをもって「終わり」にはならないことが、二十代、三十代になった元不登校者の語りから明らかになりつつある(NPO法人東京シューレ編2005『学校に行かなかった私たちのハローワーク』東京シューレ出版)。同様に、それらに通底する若者の「生きづらさ」というものも、「私はこうして希望の就職をつかんだ」というような「結末」を持つものとしてばかりは語りえないだろう。なぜなら、そうした場所で取り組まれているのは、単に「就学」「就職」という外観的な問題ではなく、「人とつながるとは、働くとは、生きるとはどういうことか」という果てしない人生の問いにほかならないからだ。

 こうした「終わりのない語り」は、一見まとまりのないノイズの集まりに見えるかもしれない。しかし、そうした語りは、権利主張の物語とは別のかたちで、今ある以外の現実のあり方を、語りを通じて示してみせることで、もう一つのムーヴメントの手段となりえるのではないかと思う。

 ただし、一人称単数の「私の語り」は、孤立し、他から切り離された状態では「自分が語ってすっきりすればよいのか」「負け犬の遠吠えにすぎないのではないか」と一蹴されてしまう。そうではなく、あくまでも「当事者の語り」が表そうとする「私の生きづらさ」とは、「他の誰かの生きづらさ」とのつながりの中で言葉にされて初めて、事態を動かすすべとなりうるものだろう。「私の語り」は、「私たちの語り」へとまとめ上げられることによってではなく、いわばそのあいだに存在する「私ではない他の誰か」を想定することによって、立ち上がる。これは何を意味するのだろうか。

 初めに触れた「当事者の語り」の困難に立ち戻って考えてみよう。それは「自己が先か、語りが先か」、「確固とした主体か、流動的な主体か」という異なる2方向を、同時に含みこむ矛盾のなかで発生する困難であった。

 こうした困難に可能性を見ようとする立場から、あえて次のように言うことはできないだろうか。すなわち、「私の生きづらさ」が「私ではない誰かの生きづらさ」とのつながりの中で言葉にされるとき、「ひりひりするまでにどうしようもなく存在してしまっている「この私」から出発するか、とらえどころのない流動的な自己を「まずは語ってみる」という手探りから始めるか」という矛盾は、実は矛盾と考える必要はなく、それらをともに求めるところからスタートすることに重要な意味があるような、いわば必然的なものとなる、と。

 ひとりからもうひとりへ。「私」から「私につながる誰か」へ。その2者を、「揺るぎない、確固とした私たち」という罠を注意深く避けながら接続しようとするとき、「ひりひりするまでの「私」がある」ことと、「確固とした「私」を揺るがす」こととは、互いに向き合って「私」というボールを投げあうキャッチボールのような関係を結ぶ。そのもとで、私の抱える「生きづらさ」が私ひとりのものに留まらないという認識は、私と同様の「生きづらさ」を抱えるだろう誰か――この言葉で私が想定しているのは、とりわけ、これから育とうとしている更に若い世代の人びとである――に対する責任と、そうした「生きづらさ」を引き受けるわが身への自尊感情とを喚起することができるのではないか。「当事者の語り」が新しいムーヴメントとなりうるとすれば、そのような形においてではないだろうか。

 いま、この時代のこの国を「若者」として生きざるを得ないひとりとして、私は後から続いてくる世代の彼ら・彼女らに、心からの笑顔で、言えるようになりたいと思うのだ。「大丈夫、あなたはひとりぼっちじゃない。だから安心して、いつでも生きづらくなってね」。

 
雨宮処凛氏プロフィール
◆雨宮処凛

1975年北海道生まれ。ゴスロリ作家。元パンク歌手&元政治活動家。アトピーが原因で受けたイジメを発端に、不登校、家出、リストカット、自殺未遂などを繰り返す。その壮絶な半生を描いた『生き地獄天国』(太田出版)は大きな反響を呼び、以後『自殺のコスト』(太田出版)、『暴力恋愛』(講談社)、『EXIT』(新潮社)など数多くの話題作を生み出している。ドキュメント映画『新しい神様』(監督・土屋豊)にも出演。

・雨宮処凛公式ホームページ
http://www3.tokai.or.jp/amamiya/

・すごい生き方 ブログ
http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/


●雨宮処凛さんから

 私自身、ずっとニートでプチ不登校でその上リストカットでオーバードーズだった。

 親や先生の言うことはなんでも聞く典型的な優等生だった中学時代の記憶はイジメと自傷行為しかなく、高校に入ってからはタガが外れたように親に逆らい、家出を繰り返し、学校に行かない日々を過ごした。その頃からリストカットが癖になり、二十代なかばまで続いた。

 なんとか高校を卒業して一人暮らしを始めてからはリストカットにオーバードーズが加わり、救急車で運ばれて胃洗浄を受けたりもした。
 
 とにかく生きているのが辛かった。それなのになぜ自分がこんなにも生きづらいのか、明確な理由すらわからないことが辛さに拍車をかけた。自分の周りを漂う慢性的な生きづらさ。普通に学校に行ったり就職したりバイトをしたり遊んだりして楽しそうに生きている人達がなぜそうできるのかまったく理解できず、そして普通に生きられない自分への劣等感はますます色濃くなるばかりだった。

なんとか物を書いて生きていくという術を見つけた今、周りを見渡して思うのは、あの頃の自分と同じ気持ちを抱える人達が確実に増えているということだ。状況はもっと悪くなっている。だから私は物を書くようになってからずっと、「生きづらさ」の問題を追っている。それが今、生きづらさから少し解放された自分自身への落とし前だからだ。

 あなたが生きづらい理由は絶対にあなただけの「自己責任」ではない。そこを履き違えた大人に責められる筋合いはまったくない。私は私を苦しめ、疎外してきた「社会」に目を向けることで大分楽になった。年間の自殺者はもう何年も三万人台をキープし、非正規雇用と言われる不安定な生活をしいられる人々は1500万人を超え、正社員になればなったで過労死に脅えるような職場くらいしかなく、しかしそれらのことが「強者の論理」で片付けられている。そんな社会でどうやってマトモに生きていけというのか。

 また、教育現場ではやたら「荒廃」「崩壊」といった言葉が使われるが、「荒廃」しているのは教師の方だろう。先日、私の元にイジメを受けているという少女から相談が来た。その子は数日前、教師に呼び出されて叱られたという。「トイレに『助けて』という落書きがあるが、そんなことを書くのはイジメられているお前くらいだろう」と。その教師はイジメについてはまったく放置し、落書きについてその子を叱ったというのだ。ちなみにその子はその落書きを書いていない。何かが恐ろしく間違っているのに、学校という閉鎖空間ではそれが通用してしまう怖さ。

 こんな、無能を通り越して有害な教師がいる学校など行くことはないと私は思う。というか、行かない方がいい学校なんていくらでもある。

 私自身、中学時代にイジメを受けて何度も自殺を考えたが、その頃不登校しなかったことを今でも悔やんでいる。イジメに耐えて学校に行くよりも、不登校した方が多くのものを失わずに済んだと思うからだ。不登校しなかったことによって、私はより多くの自分に対する自信を失い、人間不信はさらに強くなった。

 だけど、そんな極度の人間不信を抱える私を救ったのも、やはり人間だった。親や教師が求めるような「正しい」「マトモ」な生き方から下りた人々との出会いが私を楽にしてくれた。長期に渡って海外を放浪していた人や刑務所帰りやアーティストや脱力系貧乏人などなど。彼らは常識的とされる生き方とは百八十度違う自由な生き方で、ものすごく楽しそうに生きていた。そして私は、この世に正しいとされる生き方などなく、無数の価値観があることを知った。途端にくだらない常識に縛られて苦しんでいた自分が馬鹿馬鹿しくなって、普通に人並みに生きようとすることをやめたら楽になった。 だって「常識的に」生きることに縛られているからこそ、毎日百人近くの人が自らの命を断っている。

 楽に生きるコツは意外と簡単かもしれない。今までの経験を含めて、当日はそんな話をしたいと思っている。

 
常野雄次郎氏プロフィール
◆常野雄次郎

1977年兵庫県生まれ。10歳のときに登校拒否児になる。1年程の閉じこもりを経て学校外の居場所である東京シューレに。以来、学校に戻ったりまたやめたりしながらイギリスの大学を卒業。現在はフリーター。うつ病治療中。著書に、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社、2005)

・(元)登校拒否系
http://d.hatena.ne.jp/toled/


●常野雄次郎さんから

対策に対する対策のために


 不登校・登校拒否はひきこもりやニートよりも古くから問題とされてきました。もちろんこれらの現象を一括りにしてしまうのは乱暴ですが、登校拒否の歴史を振り返ることによって、ひきこもり・ニートについて考えるヒントが得られることもあるのではないかと思います。

 不登校問題には、これまでさまざまな「対策」が実践されてきました。医者は「治療」を行い、民間施設は「矯正」を行い、宗教は「救済」を行ってきました。そのような実践が蓄積されるなかで、いくつかのことが明らかになってきました。

 それは一つには、確実な「効果」が期待できるような対策はない、ということです。不登校対策では、普通、子どもが学校に復帰することが望まれるわけですが、「登校拒否児に対して○○という働きかけを行うと、学校に行くようになる」というような「特効薬」は未だ発見されていません。もちろん、「ある不登校児に対して○○をしたら学校に行くようになった」という実例はいくらでもあります。治療家たちはそのような「成功例」を競って紹介します。しかし、このような実践例は、その対策が有効であるということの証明にはなりません。

 たとえば、「アガリクスを飲んだらガンが治った」という体験談はいっぱいあります。しかし、それを聞いて、「よし、病院に行くのをやめてアガリクスで治そう」と思うガン患者はあまりいないでしょう。アガリクスが本当にガンに効くかどうかを検証するためには、多くのガン患者を集めて、2つのグループに分け、一方にはアガリクスを投与して、もう一方にはアガリクスと偽った粉末を投与して、効果に差があるかどうか観察する必要があります。抗がん剤はそのような過程をへて認可されるわけですが、アガリクスに関しては信頼できる科学的な実験はまだ行われていません。

 同じように、科学的に「効果」が実証されたような不登校対策は存在しません。これは民間施設や宗教による対策についてはもちろんのことですが、医者による治療についても同様です。不登校児に対する医者の対応には、医学的根拠はありません。医者も、他の医者からの噂や、自分の経験などから、手探りで診療・投薬を行っているにすぎません。だからと言って医者に行くのが間違いであるということにはなりませんが、私たちがふだん自然科学に対して持っているような信頼を抱くのは賢明ではないとは言えるでしょう。

 ひきこもりに続いてニートが社会問題化されることによって、大きなビジネスチャンスが到来しました。今や民間施設、政府機関、医者、社会学者たちが競って「対策」を宣伝しています。また「同世代の若者を支援しよう」という若者まで現われています。しかし私たちは、そのような対策が本当に有効なものなのかどうか、少しばかりの疑いを持っていた方がいいと思います。

 というのも、不登校対策のいわば「血の歴史」から教訓とすべきなのは、治療・矯正の努力にはコストとリスクが伴うということだからです。先日ひきこもりの監禁施設において虐殺事件が起きましたが、不登校に関わってきた者からすると「またか」というのが実感です。医療施設においても、死亡事故は起こっています。また、死亡まではしなくとも、入院中にひどい扱いを受けることがあります。薬を飲めば副作用があります。僕自身、精神科に通院中ですので、医療を全否定するつもりはありませんが、治療を受けることによって嫌な思いをすることもありうるということは知っておいた方がいいと思います。治療機関から直接的な被害を受けることがなくても、「学校に行かなければならない」と思いこむことが、学校に行かないことの一次的な不利益以上に大きな苦しみとなることもあります。

 このような現実を踏まえて、一部の登校拒否児やその親たちは、「ひらきなおる」という戦略を生み出してきました。私たちは、学校復帰の空しい努力を捨て去り、「学校に行かなくて何が悪い」と主張しました。これは単なる理想論ではなく、現実に「学校外の居場所」を作り出すという運動につながりました。

 このような運動は社会を変え、学校を変え、人々の意識を変えてきました。しかし一方で、さまざまな矛盾も生まれ、また「学校に行かなくてもOK」と考える人の中でも多様な意見が持たれるようになりました。

 一つの問題は、このような考えが一定数の人に受け入れられるようになった結果、それ自体がもう一つの不登校対策となってしまったということです。学校へのこだわりを捨てることが、いわば対策をしないという究極の対策となってしまったのです。今日では、「学校に行かなくてもいいよ」という親や教師やカウンセラーや医者はたくさんいますが、その真意は「学校に行かなくてもいいよ(なぜならばこう言うことがあなたを学校に行かせる最も有効な手段だからね)」ということかもしれません。

 もう一つの問題は、「学校に行かなくてもOK」というスローガンの持っている曖昧さから生じました。この言葉は当初、「学校に行かなくても問題がないような社会を実現しよう」というニュアンスを強く含んでいました。つまり、学校に行かないことが不利益につながることはない、という現実認識ではなく、不利益がなくなるように現実を変えようという呼びかけであったわけです。

 ところが、時間が経過する中で、この運動に関わっていた子どもたちが成人していきました。彼らの中には、一流大学に入ったり、正社員として高収入を得たり、安定した家庭を築く人々も現われました。そのような現実を見て、一部の運動関係者はある誘惑に駆られました。それは、「成功例」を紹介したいという衝動です。「私たちは間違っていなかった。現にこの人々はこんなに成功している」というわけです。となると、「学校に行かなくてもOK」というのは来るべき理想ではなく、既に現実となっているのでしょうか?

 「成功例」とされるような人々のことを、社会運動ではモデルマイノリティーと呼びます。モデルマイノリティーたちの存在は、社会的偏見に対する反証となります。「ゲイは性欲のカタマリだ」という偏見に対しては慎み深いゲイが、「黒人は野蛮だ」という偏見に対しては知的な黒人が、「女性は仕事ができない」という偏見に対しては女性社長が、存在として反論となっています。同じように、「学校に行かない者は病気だ。彼らに未来はない」という差別に対して、私たちは、健康に社会でエリートとして活躍する元不登校児の存在を指摘することによって抗うことができるでしょう。

 しかし、そうした瞬間に、私たちは大切な何かを失うことになると僕は思います。なぜならば、それは差別の「基準」を受け入れることだからです。問題なのは、「ゲイは変態だ」という認識がどれほど現実を反映しているかということではなく、「変態」と「正常」を分け、「変態」を忌み嫌うことそれ自体であるはずです。モデルマイノリティーの存在を宣伝することによって、「ゲイは変態だ」という偏見は薄れていくかもしれません。しかし、「変態」と「正常」を分ける発想が温存されるのであれば、「変態的なゲイ」と「正常なゲイ」がいることになり、変態に対する差別は相変わらず続くことになります。そして差別に反対するはずだった運動は、より深く陰湿な差別をもたらすでしょう。

 「成功例」と言えるような不登校経験者は、少数派です。多くの人が、学業や仕事で困難をかかえ、病気になり、人間関係につまづいています。とすれば今や、不登校を一括りにすることはできず、「良い不登校」と「悪い不登校」が存在すると言えるでしょう。近い将来、不登校という言葉は消滅し、この両者に別の名前が与えられることになるかもしれません。

 しかしこれは、やむにやまれず、八方ふさがりの状況で「学校に行かなくて何が悪い」と叫んだ人々の思いからは、遠く離れた現実であるのではないでしょうか? 私たちが言いたかったのは、学校に行かなくても「正常」の基準を満たすことができるということではなく、「異常」で何が悪い、正常・異常に関わらず全ての人の存在が肯定されるべきだ、ということであったはずであると思います。

 差別に反対する者こそが、マイノリティーに対する偏見を、そのまま肯定すべきです。なぜならば、争われるべきなのは、偏見が真実であるかどうかではなく、偏見が問題となってしまうことそれ自体であるからです。

 ひきこもり・ニートもまた、さまざまな差別・偏見の対象となっています。これに対して、「いや、それは彼らの実態からずれている。彼らの真の姿は○○だ」と反論する人々も現われてきました。しかし僕は、ひきこもり・ニートと分類される人々の「真の姿」が何であるのかということには興味がありません。偏見に反するような「実例」を指摘することは、「良いニート」「悪いニート」を生み出すことでしょう。しかし私たちが目指すべきなのは、全ての人が無条件に肯定されるような社会であると僕は思います。

 では、ひきこもり・ニートを肯定するとはどういうことか、そのためには何をする必要があるのか、ということは、フォーラム当日お話しできればと思います。

 
寺井元一氏プロフィール
◆寺井元一

1977年9月13日兵庫県生まれ。96年私立灘高校卒業後、早稲田大学政経学部に入学。01年に同大学を卒業後、同大学院に入学。政治学を専門に、若者の価値観と投票行動の関連を研究する。学生時代に3年間、某衆議院議員の事務所にボランティアスタッフとして従事。その後、02年11月6日、NPO法人KOMPOSITIONを設立。大学院を中退した後、KOMPOSITIONの運営に専念、現在に至る。

・KOMPOSITION (コンポジション):東京・渋谷でアートやスポーツのイベントを企画、若者の夢を支援するNPO
http://www.komposition.org/

 
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